このたび山喜房仏書林社長浅地康平氏の支援のもとに、仏教研究の学術誌『仏教学』を発刊することになった。仏教研究の学術雑誌は『印度学仏教学研究』をはじめとして決してすくないことはない。しかし研究発表の機会は少しでも多い方が、若い研究者のためには望ましいことである。その点で、本誌の発行にも多少の意義があると思う。
本誌は『仏教学』と名づけたが、しかし本誌には仏教学の学術論文のほかにインド哲学やインド文学の研究論文ももちろん歓迎する。そして若い研究者が、自信のある研究成果を気軽に発表できる機会を提供したい。本誌は特定の目的を立てて、その目的を達成するために設けられた機関誌ではない。研究発表の場を提供することが、本誌発行の目的である。したがって学術的な研究成果であれば、インド哲学から日本仏教まで、はばひろい分野の業績を掲載したいと考えている。それによって斯学の発展に寄与したいと念願するものである。最近は現代文明の行きづまりから、宗教の見直し、とくに仏教にたいする関心が深まってきた。この社会の関心にこたえるためには、何よりもまず仏教の客観的把握が必要である。しかしインド・中国・日本にわたって多岐に発展した仏教の解明は、多数の学者の協力なしには不可能である。本誌が、このような仏教学者の学的協力の場として役立つことを期待するものである。
本誌の運営は「編集同人」の協力によっておこなわれるものである。
昭和五十一年六月十六日
本日ここに仏教思想学会の第一回学術大会を開催するに当たり、本学会の代表として、一言御挨拶申し上げます。
本学会はご案内の通り、雑誌『仏教学』を刊行して参りました仏教学研究会―平川彰先生を代表として、早稲田大学文学部内の先生の研究室を事務所とする―を改組したものであります。
『仏教学』はその発売元として、創刊以来絶大の援助をいただいております山喜房仏書林主の浅地康平氏および熱心な購読者の皆様に支えられてて、順調に発展し、ここに十年目を迎えることが出来、学界においてもかなりの評価を得るようになりました。皆様の御援助に厚く御礼申し上げます。
その刊行十周年も近づいたところで、学界ならびに社会の要望に応えて『仏教学』のさらなる発展をはかるために、仏教学研究会を学会組織に改組しようではないかという声が、昨年秋頃から編集同人の間でもち上がりました。そこで今春三月、改組のための発起人会を開き、会則や役員等々の必要条件の準備を整えて、四月十二日本郷学士会館において評議員会・理事会を開き、学会名を「仏教思想学会」と決め、私が理事長として会の代表を務めることとなりました。
『仏教学』はこうして、新たに仏教思想学会の機関誌として刊行をつづけることとなりましたので、在来の『仏教学』購読者各位にはそのまま本学会の会員として講読をつづけて頂きたく思い、直ちに学会発足の通知と併せて、入会勧誘の手紙を差し上げたところ、幸いにも大方の皆様の御賛同を得ることが出来ました。ここに重ねて御礼を申し上げる次第であります。
ここで、『仏教学』を機関誌とする学会が「仏教思想学会」であることについて、疑念をもたれる向きもあろうかと思いますので、本学会の目的とするところを併せて、一言御説明申し上げておきたいと存じます。
仏教思想学会というのは、一応、仏教の思想を研究する学会ということでよろしいでしょう。ところで、仏教思想、仏教の思想とは何か。たとえば、仏教の研究には、仏教の教理とか、仏教の歴史、仏教の経団、等々、「の」でむすびつけられるいろいろの分野があります。仏教の思想の研究という場合も、歴史とか教団などの研究とは別で、教理よりはやや広い範囲の、仏教的な考え方の研究をさすという理解も出来るかと思います。しかし、私は仏教の思想をもっと大きな意味に解して、仏教という思想の意にとりたい。つまり、サンスクリットの文法学で言うと、依主釈の「の」ではなく、持業釈で解したいと思います。ならば、仏教という思想とは仏教にほかならず、『仏教学』は仏教思想の学という意味でそのままでも本学会の機関誌名として差し支えないこととなりましょう。まあ、これは屁理屈にもきこえますが、あり体に言うと、仏教研究の学会は数も多く、類似の名がすでに用いられているので、学会の名をつけるのに苦労した次第です。
ところで、仏教という思想とは何か。思想というのは頗る曖昧模糊とした言葉です。それだけに便利なものですから今日では何にでもよく使われておりますが、戦前には何々主義という場合の主義に当たる意味をもたされ、とくにある特定の主義をさして、思想が目の敵にされ、口にするのこわいような空気もありました。もちろん、今日同様に一般的に使用されなかったわけではなく、仏教の領域でも、私どもの大先輩である木村泰賢先生には『原始仏教思想論』『小乗仏教思想論』『大乗仏教思想論』の名著があるし、宇井先生も『仏教思想研究』という論文集を出しておられます。それらの用例でみましても、仏教思想はほとんど仏教というのと違わない模様です。宇井先生の序言では、仏教が複雑かつ繁縟になっているので色々な方面からの研究解釈がなされ得るが、自分としては、仏教の社会的実際的方面に関しては関係することではないが、思想的研究的方面については十分な慎思を要すると考えると言っておられる。したがって、宇井先生にとっては仏教研究、即、仏教思想研究であったように見えます。しかも暗々裡に言わんとしておられるのは、それが「仏教とは何ぞや」という問に対する答えを用意できるものであるべきだということのようであります。
この第二点は今日でも学界全体の要望として問題になっていることで、たとえば、印度学仏教学会などの学会での研究発表を見ても、研究対象は細分化され、文献的な研究は非常に緻密となり、新しい資料発掘など大きな成果が上がっているが、仏教そのものについての理解、考察という点でかえって弱くなっている、その意味で仏教の思想的研究として十分でないのではないか、という声をしばしば耳にします。もちろん思想の研究であるから文献研究は取上げないということではなく、仏教とは何かということを絶えず問いかけながら、仏教に関わる広い範囲の諸問題を取上げて論じて行くことを学会の任務とすべきでありましょう。
さらにもう一つの課題があります。それは思想という言葉を用いることによって、純粋学術的関心よりもさらに広い範囲で、一般的な形で仏教を論ずることを期待する向きもあるということであります。すなわち、社会的な諸問題に対して、仏教としてどう対処すべきかといった、いわば今日的課題への取り組みの要望であります。これ仏教の対外部的(他の諸思想と対比される)特質を闡明にすることでもあり、本学会としても必然的に取り組まざるを得ない課題と考えます。
以上のような諸種の要望に対し、それらを学会の発表の形式に出来るだけ反映させていきたいと考えております。今回はその方針にしたがって、「思想と言語」ということで特定の方々に発表を依頼致しましたが、今後とも仏教に関わる大事な基本的問題を取上げ、発表と討議という形で、仏教の思想的理解に資するように努めたいと存じます。
(本稿は第一回学術大会〔補:昭和六十年十月十日 於東京大学仏教青年会講堂〕での挨拶に、若干補訂を加えて書き下ろした原稿である。)
仏教学は仏教を研究対象とする。そのためには「仏教とは何か」が判っていなければならない。しかし仏教を明らかにするために、仏教学があることも事実である。このことは、仏教という大きな対象でなく、もっと部分的な対象、例えば竜樹について考えてみても同じ問題が出てくる。竜樹には真偽未決定の著作が多い。それらの著作の真偽を決定するためには、基準が必要であるが、その基準を、竜樹の思想と無関係に決定することは困難であろう。しかし竜樹の思想の研究には、竜樹の真作の決定が先行するわけである。もちろん文献学的な研究で、この種の問題はかなりな程度まで解決するであろう。しかし文献学が、そのまま仏教学であると言いうるであろうか。同時にまた、文献学を離れて仏教学がどのように成り立つであろうか。われわれが仏教研究において新天地を開拓するためには、この問題をとことんまで考える必要があろう。
平川彰/『佛教學』第2号(昭和五十一年十月)掲載
凡そ学問がその独立を主張する場合、対象・目的・方法論の三つが問われるであろう。仏教の研究には、教理や教団についての体系的・歴史的研究にはじまって、その伝播によってアジア各地に惹起された文化複合の研究に至るまで、極めて広汎な領域があり、目的や方法論についてもまた、伝統的な性相学の如く悟道の資助とするものをはじめ、諸宗教・哲学思想との比較や、純文献的成果を以て満足するなど種々の立場がある。最近の文化人類学的研究では、研究の手段として、求道とは関わりなく、修行者と全く同じ生活をすることも行われている。しかし、これらのすべてを仏教学と呼んでいるわけではない。ではどこまでが仏教学かとなると範囲の限定は困難であるが、中核となるのはインド以来蓄積された諸文献の解読を通じて、仏教の教理とそこに開顕された仏陀の真意をたづねることであろう。これを悟道の資助とするか否かは仏教者各自の問題である。
高崎直道/『佛教學』第3号(昭和五十二年四月)掲載
インドに開花した仏教は、広くアジアの諸地域に流伝しつつアジア文化の精神的基調となった。この文化の源泉となった仏教を科学的に問いかけることが、仏教学の学問領野である。とすれば、仏教学とは、広い領域に亘って仏教が遺した思想の凝集である諸文献の学的樹立、すなわち科学としての客観性を確立することである。学としての仏教学は、それ故に科学的仏教研究、いわゆる厳密な文献学的研究を必要とする。南条文雄博士によって志向された近代仏教学こそ、まさにその濫觴である
しかし反面、現代に問われることは、文献研究と並んで広く隣接諸学との関わりの中で、思想、宗教としての仏教を問いかけることと、仏教を主体的に、みずからの人間形成の場として問いかけることであろう。一人の人間の生きざまが、仏教学を通じてより深化、内省されてゆくとき、仏教学は新しい視点を提供するにちがいない。
雲井昭善/『佛教學』第4号(昭和五十二年十月)掲載